2022年5月24日 (火)
2022年5月23日 (月)
理想的な建築・聖ヨハネ教会(5)
聖ヨハネは1階が幼稚園で2階が礼拝堂になっている。その大好きな礼拝堂がまるまる天井裏であることに気づいたのは何度か訪問したあとだった。図にすると下のとおり。こうなっていたのかぁと気づいてからガーディナーが好きになった。構造的に明快であることが理想の建築の第一条件である。
多少説明するとこれはクイーンポストトラスだ。キングポストトラスは三角形トラスの中心棒が下まで通っているが、クイーンポストトラスは中心棒が左右ふたつに分かれてトラス中央を屋根裏部屋として使うことができる。
図のように三角形の3つの頂点それぞれに三角形をつくることで全体の変形を防いでいるのがクイーンポストだ。テキスト通りの明快な構造でとてもよろしい。しかも2本の柱があることで側廊ー身廊ー側廊と古典的な3廊形式になる。さすがガーディナーだ。見習うべきである。
2022.05.15、愛知県犬山市明治村、聖ヨハネ教会
2022年5月22日 (日)
2022年5月21日 (土)
2022年5月20日 (金)
2022年5月19日 (木)
2022年5月18日 (水)
理想的な建築・聖ヨハネ教会(2)
2枚描いた。聖ヨハネは横顔もよい。この会堂の第一の特徴はその大きな屋根にあるが、そこにゴシック風の屋根窓がついているのがこよなく愛らしい。その尖った窓屋根の上にひとつずつ十字の星がついているところもよろしい。
屋根は当初、鉛葺きだったそうだ。おそらく大屋根が急こう配過ぎて瓦が葺けなかった。この会堂は京都の町中にあったので周囲の瓦屋根に合わせて鉛葺きを採用したのだろうと思う。それが雨が漏るようになって銅板葺きに変わった。移築に当たっても銅葺きが踏襲されている。丘の上に建つ今となっては銅サビの青緑色が似つかわしい。
2022.05.15/ヴァフアール紙粗目F4、グラフィックペン0.5、固形透明水彩 /愛知県犬山市明治村
2022年5月17日 (火)
2022年5月16日 (月)
2022年5月15日 (日)
堀口捨巳の常滑陶芸研究所を見た(7)
ほかにもいくつかおもしろい工夫があったのでご紹介してこのメモを終わる。
ひとつめはドアノブまわりにプラスチック板を取り付けていること。おそらく陶土のついた手で触るところなので拭き掃除がしやすいようにしているのだろう。色付きのプラ板を使って楽しく仕上げている。
ふたつめはドア上に照明を仕込んでいること。これは常夜灯のように使うのかもしれない。ここだけ電気が点いていれば廊下も部屋もほの明るいだろう。
今回は突然訪問したにもかかわらず快く迎え入れてくださったのでありがたかった。堀口捨巳を初めてみたが勉強になった。この時代特有の若々しい工夫や挑戦の数々を見ることができて勇気が湧いた。ありがとうございました
2022.04.23、常滑陶芸研究所
2022年5月14日 (土)
2022年5月13日 (金)
堀口捨巳の常滑陶芸研究所を見た(5)
突然訪問したにもかかわらず応接間も開けてくださった。建物の見学者に慣れてらっしゃる。どこを見てもよいという。ヲタク用語でいうところも「野放し」だ。うれしい。写真も撮ってよいと許可をいただいた。ありがたい。
応接間はなぜか真っ赤だった。床のPタイルもソファーも赤い。緋毛氈を敷いた野点の気分を表しているのかも知れない。茶室が付随しているが、わたしには何の写しなのかさっぱりだ。茶室の左側の棚には常滑焼の茶器が飾られている。だから茶室も茶器と同様展示物扱いなのだろう。
おもしろいと思ったのは天井だ。高いところと低いところがある。応接セットの上は少し低くてアルコーブ風の落ち着いた感じにしている。
応接セットと茶室のあいだは天井が高い。ここは展示物を見るための通路に当たるので高くしたのだろう。その部分は天井板を市松貼りにしている。天井の段差の部分に照明を仕込むあたり芸が細かい。こういう天井をわたしも作ってみたい。
2022.04.23、常滑陶芸研究所
2022年5月12日 (木)
堀口捨巳の常滑陶芸研究所を見た(4)
玄関扉の左右にガラスブロックの袖壁がある。斜めになっているのは風よけ室を広くしたかったからだろう。普通であれば風よけ室を箱型に前へ飛び出させるところだが、斜めにすることで飛び出した感じを消してすっきりと納めている。設計が柔軟だ。
わたしは紫色のガラスブロックを初めて見た。とても珍しい。もちろん外壁の紫色のモザイクタイルと響きあっている。ガラスブロックにはガラス窓よりも光を拡散する効果が強い。そのおかげで階段室に紫色の光が満ちる。階段の背景である白い壁もほんのりと紫色を帯びている。
前回考えたように展示室が海底をイメージしたものであれば、紫色に染まった階段室は海へ潜ることを予告しているのだろう。よくできている。
天井は光天井となっている。幾何学的なパターンが入っているので光の拡散効果が高くふんわりとした光が落ちるよう工夫している。中の蛍光灯を斜めに取り付けるあたり芸が細かい。
吹き抜けから見下ろした吊り階段はやはり美しい。こうやって眺めると吊り棒を垂らした大梁が背後の白壁を上下に区切っていることがかっこいい。ほんとよくできていると思う。
2022.04.23、常滑陶芸研究所
2022年5月11日 (水)
堀口捨巳の常滑陶芸研究所を見た(3)
この階段は、しばらく前からツイッターをにぎわしていた。どこだろうと思っていたがここだった。ほんとすばらしい。端正で軽やかで美しい。さすが堀口である。
驚いたことにこれは吊り階段である。吊り橋のような階段で軽やかな意匠となる。ライトの落水荘の階段が有名だが、わたしは吊り階段の現物を見たのは初めてだった。なめるように見てきた。
踏板は真ちゅう板を折り曲げて作っている。表面には真ちゅう色のプラスチックタイル(Pタイル)を貼り、段鼻は真ちゅう製の滑り留めを取り付けている。真ちゅう製の階段をわたしはよそで見たことがない。
踊場から上は真ちゅう色の梁から垂らされた角パイプで吊られている。パイプのなかに鉄筋が入っているのではなかろうか。壁側はコンクリート壁にボルト留めである。梁は鉄骨を真ちゅう板でカバーしたものだと思う。
踊場から下も基本的に同じだが踏板の下に補強用の斜材が入っている。この斜材は踊場から上には無いのだから下も無くて大丈夫だと思うが。この斜材は床には接しておらず完全に宙に浮いている。完全な吊り階段である。おもしろい。
軽やかな細工物のような階段は昇るのもわくわくする。さほど広くもない階段ホールがこの階段のおかげで楽しい場所となっている。わたしもこういうかいだんを作ってみたい。常滑に来てよかった。
2022.04.23、常滑陶芸研究所
2022年5月10日 (火)
堀口捨巳の常滑陶芸研究所を見た(2)
バルコニーにもモザイクタイルが貼りまわしているので紫色の光に満ちている。その光が室内にも反射して透明度の高い風のなかにいるような気持ちになる。
さて、なぜモザイクタイル貼りなのか。考えられる理由のもうひとつは国宝の秋草文壺に触発された可能性だ。ちなみに秋草文壺は常滑焼と言われていたようだが、今では渥美焼とされている。平安期の古い壺で胴回りや肩にススキやそのほかの秋草がヘラ描きされた珍しいものだ。出土状況から骨壺と推定されている。
前出本の解説に、工業化された常滑焼に工芸の創造力をよみがえらせるために平安時代の秋草文壺の精神に立ち返ろうとしたとある。秋草文は着物の裾模様にあしらわれることがある。だからモザイクを使った裾模様を採用したのかも知れない。
ただしこの説明だとなぜ紫なのかは分からない。堀口は茶室研究の大家だから、なにかしらの茶道的教養が関係しているのかも知れない。もうそうなると私にはさっぱりわからないだろう。
わたしはこの二つ目の可能性はないと思う。そんな小難しいことを堀口はしないだろう。わたしはただ単に海をイメージしているのだと思う。利休も珍重した常滑焼の水差しは、海底に沈んで貝殻に覆われたような趣がある。
展示室はトップライトから光が舞い落ちる設計となっている。今回、残念ながら展示室に入れなかったのではっきりとは言えないが、それは海をイメージしたものだろう。暗い海底に眠る古陶に海面から差し込んだ光がゆらめく。そうした深い瞑想的な建築なのではないか。カラコンモザイクの紫を選んだのはそれが海の色だからだろう。
2022.04.23、常滑市立陶芸研究所
2022年5月 9日 (月)
堀口捨巳の常滑陶芸研究所を見た(1)
堀口捨巳をはじめて見た。1961年竣工なので彼が66才のときの作品である。大きな庇が気持ちがよい。いくつか気づいたことがあるのでメモしておく。
建物を見て最初に驚いたのはモザイクタイル貼りだったこと。モダニズム建築はコンクリート打ち放しが多いので驚いた。なぜタイル貼りなのだろう。とりあえず考えられる理由はふたつある。
第一に陶芸研究所を市に寄贈した伊奈長三郎へのリスペクトだろうということ。
陶の森で入手した「堀口捨巳展」(とこなめ陶の森、2016)によれば、使われたのは伊奈製陶製のカラコンモザイクタイルだという。カラコンモザイクは色土を焼いたもので釉薬がけではない。だから釉薬タイルのように光らず落ち着いたパターンを床や壁に描くことができる。ちなみにカラコンはカラーコンディション(色調整)の略だと上記本にあった。発売は1953年だそうだ。
もともと日本で最初に本格的なモザイクタイルを作ったのは伊奈製陶だったとされる。モザイクタイルはスクラッチタイルと並んで伊奈製陶を代表する製品だった。だから伊奈長三郎を陰ながら顕彰するなら伊奈の製品を使うのがよろしい。
伊奈長三郎は帝国ホテルのスクラッチタイルやテラコッタの製作を担当したのちに伊奈製陶を設立した。地元愛知県の組合理事長や常滑市長を歴任し、地元産業の発展に尽力している。常滑陶芸研究所は引退する伊奈が後進の教育のために市に寄贈したものだと研究所入り口の説明にあった。この時代の名士は伊賀の川崎家といい半田の中埜家といい、成した財を地元へ還元なさるのがえらい。
長くなったので続きは明日。
2022.04.23、常滑市立陶芸研究所
2022年5月 8日 (日)
2022年5月 7日 (土)
タイルの100年(6)泰山タイルの裏を見よ
泰山(たいざん)タイルの裏が展示されていてさすがイナックスライブミュージアムだと思った。
みなさんはタイル産業の業態をご存知だろうか。常滑でも多治見でもタイルの産地を歩けばガス窯1基で稼働している小さな独立工房がたくさんある。
それらは茶器をメインとしながら副業としてタイルを焼いてきた。タイルメーカーは自社で作るばかりでなく受注状況に合わせてそうした独立工房に下請けさせるのが常だった。だから同じタイルでも違う窯で焼いたものが混じるのだ。
また受注したタイルが多岐にわたる場合、メーカーが問屋機能を発揮することもある。複数メーカーのタイルを取り揃えて納入することもあるのだ。だから納入されたタイルの一部が泰山タイルだとしても、全部がそうだとは言い切れない。
タイルメーカーの特定はさほどに難しいものがある。軽々と泰山と決めつけては当時活躍していた他メーカーをないがしろにすることにもなりかねない。その点、タイル裏の刻印を確かめることができれば決め手になる。さすがである。
展示は盛りだくさんで一度では見切れない。しかも3館巡回展のため途中で展示替えがあるようだ。何度でも足を運びたいものだ。タイルのお好きなかたにおすすめの展覧会である。
「タイルの100年」 2022/4/9ー8/30
巡回展示 イナックスライブミュージアム、多治見モザイクタイルミュージアム、江戸たてもの園
https://livingculture.lixil.com/topics/ilm/clayworks/exhibition/japanesetile/
2022.04.23、愛知県常滑市、イナックスライブミュージアム
2022年5月 6日 (金)
タイルの100年(5)つばき窯のテラコッタを見よ
岩下尚史の「芸者論」を読んだばかりだったので、新橋演舞場の部品が出ていて驚いた。あとで聞くともっと大きな部品もテラコッタ館にあるらしい。今度行ったら確かめてみる。
「芸者論」によれば最初伊東忠太に設計依頼したそうだ。伊東は新橋花街の常連だったようだ。もし伊東が設計すれば野太い和風神殿のような姿になったろう。それもおもしろいが結局伊東は受けず菅原栄蔵に話を振ったという。
菅原のライト風の演舞場を見てみたかった。その建物は1982年に建て替えられたのでイナックスはそのころから資料を集めていたのだろう。よくぞ残してくださったと感謝しかない。
2022.04.23、愛知県常滑市、イナックスライブミュージアム
2022年5月 5日 (木)
奈良女旧本館をスケッチした
奈良女子大旧本館を公開すると聞いたのでスケッチしてきた。よいお天気で気持ちがよかった。これで50分くらい。屋根に変化があり楽しい建物である。
2022.05.04/ヴァフアール紙粗目F4、グラフィックペン0.3、透明水彩/奈良女子大学記念館
2022年5月 4日 (水)
2022年5月 3日 (火)
2022年4月30日 (土)
日本のタイル100年(4)つばき窯の和風タイルを見よ
かねてから名古屋市役所2階ホールの窯変タイルはただものではないと思っていた。それを作ったのが山茶(つばき)窯の小森忍だったという。作例とともにタイル裏のツバキ刻印も展示していたのはさすがイナックスライブミュージアムである。タイルは裏を見るまで誰の作品か分からないからだ。
説明書きによれば小森は一風変わった経歴の持ち主だ。
1911年に京都市陶磁器試験場の技師となり、中国古陶磁器の研究をする。1917年満州にわたり満鉄中央試験場窯業課主任となり中国古陶磁器の研究を進める。1921年独立して大連に小森陶磁器研究所を開設。1928年に愛知県瀬戸に研究所を移して山茶窯を名乗った。
さて、武田五一はかねてから京都市陶磁器研究所に協力していた。年譜によれば京都陶磁器組合主催の奨励会の審査委員を1910年、1911年と続けてつとめている。武田は小森を知っていたわけだ。武田が大連の都市計画を作ったのは1916年で小森の渡航の1年前に当たる。これも偶然ではなかろう。武田は小森とともに新しい和風タイルをつくろうとしていたのではないか。
京都市陶磁器試験場は1919年に国立へ移管されるが、1928年に新築された試験場建物を設計したのは当然ながら武田である。その年に小森は瀬戸へ移り新しい窯を立ち上げた。
小森が出るまでは国産タイルの開発に意を注いでいた武田だが、小森登場以降は洋風をまねるだけではなく和風タイルの開発へと研究が転換したのだろう。つばき窯の窯変タイルはその転回点の記念碑的存在であるといえよう。
2022.04.23、愛知県常滑市、イナックスライブミュージアム
2022年4月29日 (金)
2022年4月28日 (木)
日本のタイル100年(3)ラグランモザイクタイルを見よ
ラグランモザイクという名前を初めて知った。1960年代から作っているらしい。わたしが設計実務についた1980年代後半ではあまり使われていなかった。見覚えのあるタイルだが今まであまり注意していなかった。まだ実例がたくさん残っているだろうから、気をつけて写真を集めてみる。
キャプションにある万博とは70年大阪万博のことで、そのころ関西は建築ラッシュに沸いた。東京ではいち早く64年の東京オリンピックが都市開発の契機となっている。ラグランモザイクは高度成長を背景としたヒット作だったのだろう。ちなみにラグランとはラグラン袖の弓状の縫い付け形状と似ていることによる命名だろう。いかにも繊維業全盛のころのめーみんぐである。
2022.04.23、愛知県常滑市、イナックスライブミュージアム
2022年4月27日 (水)
日本のタイル100年(2)初期国産モザイクタイルを見よ
最初に国産モザイクの本格的な生産に踏み切ったのは伊奈製陶(現イナックス)だった。これがその現物だろうと言われている。矢橋賢吉設計の旧岐阜県庁床モザイク(1924)である。
先日六角モザイクを三重県の旧上野市役所で見たと報告したところ、小径さんから旧岐阜県庁にあったことを教えられた。展示されているのは旧岐阜県庁が正面を残して解体されたときにはがしてきたもののようだ。
おもしろいのはタイルの切断面が見えることだ。旧上野市役所のものよりブ厚い。説明書きにあるようにこれは陶器なのだろう。いまのモザイクタイルは磁器だ。陶器は磁器より焼成温度が低いので多少割れやすい。だから厚くすることで強度を増したのだと思う。実際100年経ってもなんともない。いかに伊奈製陶の技術が優秀だったのかが分かる。
さて、武田五一が名古屋高等工業学校へ転任したのは1918年だった。同年、武田は臨時議院建築局の技師となる。建築局は大蔵省内に設置された国会議事堂の設計チームだ。チーフ格の工営部長に就いたのは武田の3年先輩の矢橋賢吉だった。岐阜県庁の設計者である。
1918年に国会議事堂の設計コンペの公募が発表された。翌年コンペ結果が発表され、1等当選案をもとに矢橋チームが設計にとりかかった。岐阜県庁は国会議事堂設計のための試験ケースを兼ねたと言われている。
武田は以前より矢橋に協力して議事堂設計にかかわってきた。武田設計の旧山口県庁(1916)も岐阜県庁同様、試験ケースと言われている。試されたのはデザインだけではない。
議事堂は国産建材でつくることが義務付けられたから、議事堂建築に合わせて建材の国産化がすすめられた。伊奈製陶のモザイクタイルもその一環であったろうとわたしは思う。
おそらく久田吉之助のテラコッタ開発も当初から議事堂建築を視野に入れたものだったろう。1918年になって武田が名古屋へ赴任するのも常滑や多治見を中心としてタイルの国産化を進めることが目的だったのではないだろうか。
2022.04.23、愛知県常滑市、イナックスライブミュージアム
2022年4月26日 (火)
日本のタイル100年(1)武田のテラコッタを見よ
イナックスライブミュージアムの展覧会「日本のタイル100年」を観てきた。ミュージアムの磯崎さんありがとうございました。撮影可だったので気付いたことをメモしておく。
最初に目に入ったのはこのでっかいテラコッタ。京都府立図書館(1909)の装飾と説明があって驚いた。武田五一デザインのテラコッタ装飾が常設展示にあるのは見ていたが、そのほかにも収蔵なさっていたとは知らなかった。武田マニアとしてはとてもうれしい。舐めるように見ていると磯崎さんが寄ってきて「さすが、まっさきに武田五一ですね」と言われた。
キャプションに久田吉之助工場製とあった。久田のことは20年ほど前にタイル復元家の太田さんから教えられた。久田はライト設計の帝国ホテルの外壁テラコッタを開発したが、その後ホテル側とけんか別れして受注は別工場が請けたという。
武田と久田との出会いは古い。武田は京都の伝統工芸の近代化のために京都高等工芸学校へ1903年に赴任した。伝統工芸の近代化のテーマには織りや染めのほかに陶芸も含まれる。輸入にたよっていたタイルやテラコッタの国産化を武田は目指した。
武田の設計した岐阜の名和昆虫館は1907年に竣工し、ここで久田は国産最初と言われるテラコッタを製作した。武田と久田とによる陶芸の近代化のための試みはそのころ始まったと考えてよいだろう。続いて府立図書館ではさらに大型のテラコッタを製作した。そのテラコッタを建物全体に貼りまわしたのが帝国ホテル(1923)だった。
ライトと久田を引き合わせたのは帝国ホテル重役の大倉喜八郎だったとされている。ライトは黄色いテラコッタでホテル全面を覆うことを提案していた。大倉は京都の長楽館(1909、村井別邸)が黄色いことを知っていたので、そこからたどって長楽館の外壁タイルを製作した久田のもとへ依頼が舞い込んだという。
長楽館の外壁タイルはテラコッタだったろうか。テラコッタとは一般的に立体的な装飾焼き物をいう。今度行ったら確かめてみるが、長楽館の外壁は名和昆虫館と同じ釉薬がけのタイルだったと思う。
久田まわりのネット情報では「黄色いレンガ」という言い方がされてるが、そうした用語をわたしは聞いたことがない。黄色いレンガと言うと化粧レンガの一種のように聞こえるが、久田が作ったのはレンガではなくテラコッタだ。「黄色」は昆虫館や府立図書館ですでに実現させている。難しかったのは土練り、成形と乾燥だったのでないかとわたしは思う。
久田と武田とはコンビを組んでいたし、武田はライトとも友人だった。わたしはライトと久田を引き合わせたのは武田だったろうと思っている。1918年、武田が突如として名古屋高等工業学校へ転任させられたのも陶芸の近代化のための一環だったのではないか。武田が目指していたのは「京都」の工芸近代化ではなく「日本」の工芸近代化だったと考え始めている。
2022.04.23、イナックスライブミュージアム
2022年4月25日 (月)
半田の旧カブトビール工場をスケッチした
アユミギャラリーの「近代建築史への旅スケッチ展」の公募作品で見たのを覚えている。ギャラリー主の建築家・鈴木喜一さんのスケッチも見たような気がするが、それはわたしの脳内創作かも知れない。
ここ数年スケッチする時に鈴木先生のスケッチがまぶたによく浮かぶ。先生が亡くなって11年になるが今でもわたしは先生に教えられているわけだ。今回も鈴木風になった。
保存が決まったとき半分解体されたところだったそうだ。そのころにスケッチ展にも出ていたのだろう。解体途中のレンガ壁が中世教会の廃墟のようでおもしろかった。
展示室も充実していて勉強になった。大規模な耐震補強を施したようだが、濃尾震災以後の建物なので耐震レンガ造だろう。大がかりな補強は必要なかったのではないかとわたしは思う。
2022.04.24/ヴァフアール紙粗目F4、グラフィックペン0.3、透明水彩/愛知県半田市
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