2025年1月24日 (金)

五龍閣のディテール(5)コリント式

バルコニーの付け柱飾りだ。ラーメン模様とその下の楕円形メダリオンの取り合わせが顔に見えるなぁと思って撮った。でもこれってコリント式柱頭飾りのデフォルメだよね、と今気づいた。中之島の図書館の正調コリント式柱頭飾りを挙げておくのでよく見比べてほしい。

松風邸と前後して京大の建築学教室校舎が竣工している。その玄関両脇にも不思議な柱頭飾りがある。これはコリント式のアレンジと言われているので発想としては松風邸と同じだろう。つまり本来、ワラビのような渦巻であるところを武田は四角くしたのだ。

ならば、5年後の島津製作所の謎の柱頭飾りも、基本的にはコリント式のアレンジと考えてよいのではないか。だからと言って、その下のドアーフのヒゲのようなものが何なのかは説明がつかない。それでも謎を解く手掛かりを得たように思う。よろこばしい。

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2024.12.02、京都市京都市東山区、1921
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2023.01.17、京都市左京区、京大建築学教室1922
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2021.11.19、フォーチュンガーデン(旧島津製作所本社)京都市中京区、1927

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2025年1月23日 (木)

五龍閣のディテール(4)暖炉のタイル

各部屋には必ず大理石製の暖炉がある。シンプルなデザインで武田らしい。そのいくつかにタイルが使われている。ひとつは青緑の釉薬タイルで、あまり他所で見たことがない。きれいに発色しているが表面が荒いので少しパステル調になっているのがおもしろい。

二つ目は以前もご紹介したが、ウルトラマリンの釉薬タイルだ。これも他所で見たことがない。景色が映り込むほど平滑で美しい。いずれも青系の色を選んでいる。そこにも武田らしい清々しさにあふれている。

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2024.12.02、京都市東山区

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2025年1月22日 (水)

五龍閣のディテール(3)モザイクタイル

1枚目は玄関ホール、2枚目はサンルームのモザイクタイル。いずれも六角形である。玄関は大中小の青タイルの散らし模様だ。修学院離宮の「一二三(ひふみ)石」の翻案だろう。「一二三石」とは土間に黒石を星のように散りばめたデザインだ。石がそれぞれ1,2,3個なので「一二三石」と呼ばれている。

サンルームでは大柄な植物文様だ。四角いモザイクタイルで定番の模様だが、それを六角形でやってみたというデザインである。とてもきれいだ。

日本のタイル100年展(2022、イナックスライブミュージアム)で見た旧岐阜県庁(1924、矢橋賢吉設計)のものが、初期の六角モザイクタイルと紹介されていた。それより3年早い。100年展では岐阜県庁のものは伊奈製陶製と推定していた。ならばこれもそうだろう。

武田は1918年に京都高等工芸学校から名古屋高等工業学校へ転任した。わたしは国会議事堂設計のための国産タイル開発が赴任の理由のひとつだろうと考えている。

矢橋は議事堂設計チームの主任である。一方、松風家は清水焼の窯元だった。松風家は輸出食器で名をはせた。その後電気工事のための碍子を開発して業態を拡大し、いまでは義歯のメーカーとして知られている。つまり明治以降、新技術開発ひとすじの家柄なのだ。六角モザイクタイルは、国会議事堂、矢橋、武田、伊奈製陶(常滑焼)、松風家(清水焼)のラインで実現したのではないか、というのが今のところのわたしの推理である。

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2024.12.02、京都市東山区

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2025年1月21日 (火)

五龍閣のディテール(2)

元の玄関が遺っている。ガラス窓の飾り格子が武田らしい。武田は方眼紙とコンパスでデザインしたと言われている。その幾何学的なデザインは岡崎公園の京都府立図書館の貴賓室扉でも発揮されている。

見比べてみると、ほぼ発想が同じだ。中央に円を置き、そこから十字にタテヨコの直線が伸びる。ガラス窓の周囲には枠線を巡らせている。

五龍閣の扉に使われているガラスは、あまり見たことのない型板ガラスだった。斜め格子の模様が美しい。輸入品だろうか。

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2024.12.02、京都市東山区、1921
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2023.01.10 京都府立図書館、1909

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2025年1月19日 (日)

五龍閣のディテール(1)吹き抜けギャラリー

中央の吹き抜けが圧巻だ。ここを見上げたり見下げたりしながら昇り降りするのが楽し過ぎる。

松風家は関西美術院のパトロンだったそうだ。吹き抜けは若手洋画家の作品を並べるためのギャラリーとして設計されたという。吹き抜けは2階までしかない。2階のバルコニーは3階へ上がる階段の手前で幅が狭くなっている。つまり2階の広幅のバルコニー部分と1階ホールとがギャラリーだったというわけだ。

興味深いのは、2階から3階へ至る階段の途中に踊場があって、そこから先の階段の幅がさらに狭くなっていることだ。その踊り場は、いまは上履きに履き替える場所となっている。案外その使い方が正しいのかも知れない。つまり3階は客室として設計されている可能性がある。

2階のバルコニーが狭くなる>3階へ上がる途中に踊場がある>そこから先の階段がさらに狭くなる。この3点の変化が吹き抜けの南東角に集中している。見上げたときに吹き抜けが複雑にみえるのはこのためだ。この複雑さが吹き抜けの魅力になっている。武田は機能的にバルコニーや階段の幅を決め、その変化を逆手にとってデザインしている。武田のおもしろいところがここにある。

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2024.12.02、京都市東山区

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2025年1月17日 (金)

清水坂順正「五龍閣」(1921)

カルチャーハウスの大人の遠足で五龍閣へ行った。五龍閣は元は清水焼の窯元の松風家の住宅として武田五一が設計した。松風はショウフウと読まれることが多いが、松風家とお知り合いの方に聞いたところマツカゼが正しいそうだ。ショウフウは窯名もしれない。

いまは南禅寺の湯豆腐屋さんの順正が譲り受けて店舗としてお使いになっている。大切にお使いになっていて、いつ訪れても楽しい。今回は1階のカフェだった場所を借り切って、豆腐料理をいただいた。とてもおいしかったです。

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2024.12.02、京都市東山区

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2025年1月16日 (木)

三菱UFJ銀行京都支店(1925)

桜井小太郎設計で1925年(大正14)竣工。いまは外壁の一部が遺されている。

ギリシャローマ式列柱の控えめな扱いが奥ゆかしい。京都に合わせて桜井がデザインした結果だろう。その小振りな列柱がライトアップされて美しい。

正面アーチ裏に内装の一部も保存されている。私は中へ入ったことが無かったが、残された部材を見ると内装もすごかったことが想像できる。

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2025.01.12、京都市下京区

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2025年1月15日 (水)

網干の洋館

網干にはいくつか洋館があることが分かった。これはそのひとつ。縦長の窓に統一したデザインがおもしろい。軒下の壁をざらりとしたドイツ壁のように仕上げている。その下の石貼り風の仕上げもすべて左官仕事だ。ここにも播州左官の良い仕事が遺っているわけだ。元病院だったように見える。近代化遺産リスト未掲載につき詳細不詳。

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2024.12.09、兵庫県姫路市網干

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2025年1月14日 (火)

網干商工会館(1940)

玄関ポーチ柱のモザイクタイルがなかなか良い。玄関ポーチ上丸窓を配している。端正な木造モダニズムだ。はびこったツタをはがして修理してやりたい。近代化遺産リスト未収録。姫路フィルムコミッションのHPによれば昭和15年(1940)竣工。

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2024.12.09、兵庫県姫路市網干

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2025年1月13日 (月)

本と酒の「鍛治六」

地下バーのあるシェア型書店だそうだ。まだ中に入ったことはないが、HPによれば内装も古いままらしい。今度行ったら寄ってみる。隣りの電器店カナイと一棟の建物に見える。トタンが貼られた妻側に、カナイ側と似た飾り壁の跡がある。いったいどうなっていたのだろう。

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2024.12.09、兵庫県姫路市網干

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2025年1月12日 (日)

アンティークハウス(4)ジョネス階段

旧ジョネス邸から救出された部材で借り受けたものに階段手摺がある。長い手すりとシンプルな手すり子が遺っていた。
 
ジョネス邸は和風テーストの混じったモダニズムだった。手すりのシンプルさが和風を思わせておもしろい。保管倉庫にこもって遺った部品を並べてみた。どうやらジョネス邸にあった2ヶ所の手すりが混じっているらしい。
 
とりあえず手すりの長さに合わせて設計した。2階に近い部分は、古材に合わせて新規に大工さんに作っていただいた。古材部分も現場で相当調整していただいている。大工さんのおかげできれいに復元できた。ありがたい。

※ 写真は写真家・谷口菜穂子さんの作品です。そうでないものは特記します。

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2024.10.26撮影
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2021.06.19、保管倉庫でジョネス階段を復元する(設計者撮影)
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2022.02.28、階段室初期設計
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2021.05.20、階段室スケッチ

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株式会社カナイ

旧網干銀行のすぐ横にある。見事な左官仕事がほとんど壊れずによく残っている。頂部にSにKのマークがついている。当初の店名を示すのだろう。近代化遺産リスト未掲載につき詳細不詳。

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2024.12.09、兵庫県姫路市網干

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2025年1月11日 (土)

旧網干銀行 湊倶楽部(8)

レンガ壁の所々に木片がはめ込んでいる。これは木(もく)レンガと呼ばれるもので、釘留めをするための下地材だ。ここでは腰壁の上の見切り棒を釘留めしている。

そこから上は塗り壁だが、黄色い下塗り材に繊維材を混ぜている。土壁材だと思う。伝統的な左官技術によって、この西洋館が作られているのだ。

播州は左官技術の高い地域として知られる。姫路城の修理のために全国から若い左官技術者が集まってくるのだ。この建物は外壁側の内装もいたるところに左官さんの仕事が多く遺る。いかにも播州らしい建築だとわたしは思う。

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2024.12.09、兵庫県姫路市

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2025年1月 5日 (日)

旧網干銀行 湊倶楽部(7)

奥の小部屋を見せていただいた。ここは漆喰をはがしたままでお使いになっている。真っさらに修理するより古い感じが出て雰囲気がよい。わたし的には通常なら見えない下地のようすが分かるのでうれしい。

外壁側はレンガ積みに直接仕上げ材を塗っている。レンガに残った塗り材が白いので、仕上げ材は漆喰ではなかろうか。間仕切壁はバラ板と呼ばれる巾の細い板を隙間をあけて張って下地(木摺り下地という)としている。仕上げ材が絡みつきやすいように隙間を開けるのだ。

天井の飾りも遺っている。繊細な左官仕事がすばらしい。円形模様の4ヶ所にシュークリームのような飾りがついている。これはバラのツボミをモチーフとしたものだ。バラ模様は19世紀末のウイーン分離派がよく使った模様のひとつである。この建物がウイーン分離派風と言われる理由のひとつがここにある

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2024.12.09、兵庫県姫路市

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2025年1月 4日 (土)

旧網干銀行 湊倶楽部(6)

吹き抜けの営業室がほぼそのまま残っているのがすごい。戦後の改造で2階床を設けて吹き抜け部分が小さくなっていたようだ。改修時に2階床の一部を撤去して吹き抜けを広げている。吹き抜けに取り付けられたバルコニーが途中で途切れているのは、そこまで2階床があったことの名残りだろう。吹き抜けが広がったことで美しい天井の眺めがよくなり、気持ちのよいレストランとなった。

天井は格子状に区切られた飾り天井で、中央のシャンデリアの吊元を45度傾けた飾り貼りとしている。白漆喰で仕上げられている。いまもほとんど壊れていないのは左官仕事の精度が高いからだろう。あっさりとした幾何学的なデザインで様式建築にありがちな大仰なところがないのはこの建物の特徴だろう。

興味深いのは、外から見えた円筒形の塔が内部にはないことだ。外観上だけ塔状に見せているだけで、塔と内部との関わりは天井の角が丸いことくらいだ。ようするに円筒塔は看板建築風のフェイクなのだ。こうした遊び心もこの建物の魅力である。

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2024.12.09、兵庫県姫路市

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2025年1月 3日 (金)

祓禊(みそぎ)橋(1916)

清荒神への参道にかかる。コンクリートのアーチ橋。宝珠を載せた和風デザインがかっこよい。親橋には大正𫝀年十二月二十八日架橋とある。𫝀が読めなかったが五の異字だそうだ。

清荒神参道商店会のFB投稿記事によれば大正13年の水害で流出して現在の橋になったとある。したがって欄干部分は流出した旧橋のものを再利用したことになる。元は石橋だったのかもしれない。

清荒神は大正年間に整備されている。旧橋もその一環として架けられたのだと思う。

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2025.01.01、兵庫県宝塚市

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2025年1月 2日 (木)

旧網干銀行 湊倶楽部(5)



食事の後、館内をくまなく見学させていただいた。そのとき、ご案内いただいたマネジャーさんから、窓の上が斜めになっているのはなぜかとご質問をいただいた。そのときは外観をまだ観察していなかったので「斜め」の意味が分からなかったのでお答えできなかった。今ならそれなりに説明できる。

まず「斜め」とは図(イ)の場所だ。なぜここが斜めになっているのかというのは純粋にデザインの問題である。それを理解するためには、まずアーチの説明をせねばなるまい。

アーチは半円形であることで上からかかる重さに耐える構造である。これをレンガや石で作るためには、まずアーチ状の型枠を作る。そして起点となる左右の迫持ち石とアーチ頂部のキーストーンを型枠の上に設置する。そして、そのあいだを石やレンガでアーチ状に埋めていくのだ。

設計者はキーストーンの形を上方に引き伸ばして窓上の装飾とした。左右の斜め線はアーチ構造の名残りだろうと思う。アーチのフェイスですよ、と設計者は言いたかったのだろう。結構、律儀な設計者である。#近代建築

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2024.12.09、兵庫県姫路市

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2025年1月 1日 (水)

第七十九番の吉

恒例のおみくじを引いた。かつては凶やら半吉やら末吉やら容赦のないみくじが続いたことがあるので、ここで引くときはいつもどきどきだ。みくじ棒の入った真ちゅう製の筒を振ったところ「七十九」と出た。なんとなくだが悪い予感しかない。こわごわみくじをいただいたところ「吉」だった。勇気を出してみくじを引いてよかった。漢詩を翻訳したのでメモしておく。

残月未還光
樽前非語傷
戸中人有厄
祈福保青陽

あなたはまだ月の残る暗い夜明け前にいる
宴会でよくない言葉で人をそしることもあろう
災いのあるものがあなたの家にいるかもしれない
だけど神仏に幸せを祈れば春を保つことができよう


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2025.01.01、兵庫県宝塚市、清荒神

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よろしく2025

昨年は母の老人ホーム入所や耐震補強の依頼が5件続くなど公私ともに多用だった。しかし、母は施設で楽しく過ごしているし、仕事は仲間の助力があって順調に進めることができた。おかげさまで、わたし自身はいたって平穏な日常を送ることができた。この年頭に思うのは早く春休みになってほしいということだ。休みになればスケッチや釣りに行きたいと願っている。今朝の朝食を上げておく。今年もよろしく。
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2025.01.01、年賀状
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2025.01.01、朝ごはん

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旧網干銀行 湊倶楽部(4)

正面に向かって右側もちゃんと3拍子になっている。

こうやって見てくると、設計者がどのように外壁の寸法を決めてきたのかが分かる。まず、左右を3:1になるよう寸法を調整する。円筒形の大きさを変えることで、きっちり3:1に揃えている。次に1単位を3分割する。

これは演劇の3幕構成と同じ考え方で、多分にルネサンス的だ。明治の建築教育はルネサンスを基調とした。設計者はまだ不詳であるが、彼は明治期の建築教育を受けたものであろう。

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2024.12.09、兵庫県姫路市
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寸法の決め方試案

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2024年12月31日 (火)

旧網干銀行 湊倶楽部(3)

リズム刈るな壁面構成だ。茶色いレンガタイルの細長い壁が10本並んでいる。左から1-2、3、4-5、6、7-8、9、10と3拍子になっている。9列の窓は2階までは全て同じデザインだ。しかし壁の最上部に高さの違いをつけている。こういうリズムの付け方は珍しい。3拍子を3小節作りたかったのだろう。そのせいで窓が通常よりも縦長になってしまったのがおもしろい。

(追記)よく見たら1-2、4-5、7-8の部分は、ほんの10センチほど道路側に出ているじゃないか。しかも窓の深さを変えておる。なぜそこまでするのか。

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2024.12.09、兵庫県姫路市

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2024年12月30日 (月)

旧網干銀行 湊倶楽部(2)

外観の特徴はふたつある。ひとつは角に玄関を設けたこと。もうひとつはリズミカルな外壁だ。

角に玄関を据えれば、左右の外壁を同時に臨むことができるので、建物を大きく見せることができる。この場合は玄関部分を円筒形の塔に仕上げている。そこへアーチ窓や半円形の櫛型ペディメントを配置している。

メディメントとはギリシャ神殿の屋根の三角形の壁のことだ。元来三角形だが、そこから派生してさまざまな形がある。半円形のものは窓の庇部分などによく使われる。ここでは窓のかわりに館銘板ははめられている。

ここで注意しておきたいのは、曲面の壁に曲線のアーチ窓や櫛型ペディメントを貼り付けるのはとても難しいということだ。遠目に見てもアーチ窓は半円に、櫛型メディメントは円弧状に見える。しかし実際には壁面が曲がっているので、アーチもペディメントも三次元曲線なのだ。どちらも左官さんの仕事のようだが、これを自然に見えるように作ることは超絶難しい。

アーチ窓の下にふたつの窓がある。これもすごい。壁面の合わせて建具が円弧状に曲がっているのだ。上げ下げ窓だが、曲がっている建具が上がり下がりできるのだろうか。この建物は建具精度はものすごくよい。これも見どころのひとつである。

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2024.12.09、兵庫県姫路市

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2024年12月28日 (土)

旧網干銀行 湊倶楽部(1)

8月に予約した日が集中豪雨のため臨時休業となった。12月になってようやく訪問できた。

料理は創作フレンチでとてもおいしかった。ホワイトシチューとブラウンシチューの盛り合わせランチをいただいた。シチューといってもスープではなく、肉にシチュー風ソースをかけたものだった。ホワイトは播州百日鶏のステーキ、ブラウンは黒毛和牛のステーキ。どちらも柔らかくてうまみがあり、シチューソースとよく調和していた。古い建物を眺める眼福とおいしい料理をいただく至福の時を過ごした。

旧網干銀行 湊倶楽部 http://aboshiminato.club/

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2024.12.09、兵庫県姫路市

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2024年12月27日 (金)

キタヤマIning23(1987)

キタヤマイニング23の入り口まわりを見てきた。外部階段の納まる吹き抜けがあった。そういえば大阪倶楽部の向いにある淀屋橋竹村ビルにも同じような吹き抜けがあった。こうした空洞が高松伸の特徴なのかもしれない。不動産情報によれば1987年竣工。

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2024.12.22、京都市左京区

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2024年12月26日 (木)

南座(1929)

文化財オンラインによれば大規模な改造が1991年に竣工している。外壁保存かと思っていたがそうでもないらしい。内部構造も残したようだ。外観は竣工当時に戻したという。なぜ、これほどの建築が竣工時に不評だったのか分からない。「京都の近代化遺産」によれば足立建築事務所(足立糺)設計、白波瀬工務店施工。

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2024.12.25、京都市東山区

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2024年12月25日 (水)

旧和田山機関庫(1912)

屋根が無くなってしばらくたつ。鉄骨トラスが見える。母屋はクイーンポストトラスのようだ。クイーンポストトラスとは真ん中に束柱のないタイプ。車庫の後ろ半分には下屋が附属する。そのトラスはキングポストトラスの半分だ。

興味深いのは母屋(もや)も鉄骨でできているらしいこと。母屋とは屋根材を支えるための水平材のこと。写真で見たところ角パイプに見えるが、この当時の八幡製鉄で角パイプは作っていないだろうからコの字形の溝形鋼だろう。

八幡製鉄所の初期の鉄材だと思う。先人が心血をそそいだ鋼材を雨ざらしにするのは忍びない。

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2024.12.21、兵庫県朝来市

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2024年12月24日 (火)

八鹿駅の鋳鉄製ベンチ

少し壊れているけれど、今も現役なのがうれしい。学生だったころ京都駅でこれと同じタイプのものを実測したのを思い出す。懐かしい。鋳鉄製の駅ベンチには幾種類かあるが、これはもっとも古いタイプだと思う。鉄道博物館にも何脚かあったが、このタイプだったかどうか覚えていない。

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2024.12.21、兵庫県養父市

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2024年12月22日 (日)

西大寺愛染堂

1768年に近衛家邸宅を移築したという。本堂再建に先立って復興されたわけだ。寝殿造だというからには、当初は檜皮葺きだったのかもしれない。

南中東に3室に分かれている。南室に叡尊像がある。中室には叡尊が招来した愛染明王が本尊として祀られている。北室は客殿というが公開されていなかった。西大寺HPによれば床の間付の桃山風の座敷である。

わたしは叡尊像に出会えたのがうれしかった。生前に作られた像である。慶派の手になるのであろう。写実的な彫刻で、息遣いまで聞こえてきそうだ。

末法の代にあって僧侶の戒律をリバイバルさせた謹厳実直な僧侶なのだが、思っていたより柔和で優しい面影であった。そうかぁ、これが叡尊かぁ、と認識を新たにした。

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2024.12.17、奈良市

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西大寺四王堂(1674)

西大寺は藤原仲麻呂の乱のおり、孝謙天皇は四天王に戦勝を祈願した。乱の平定後に四天王を祀ったのが寺の始まりだという。その四天王像はその後戦火で損傷するが、足元の餓鬼などは奈良自時代のままだという。金銅製の餓鬼は表面が焼けて姿がよく分からないが、それでも奈良時代の彫刻が遺っているのはすごい。

四王堂は江戸時代の再建だが、中へ入ると大仏様なので驚いた。東大寺大仏殿の再建が1709年なので、こちらのほうが古い。大仏様リバイバルの初期作品と位置付けられると思う。

屋根が二重に見えるが、下層は裳階(もこし)だそうだ。裳階とは建物本体のまわりに取り付けられた庇(ひさし)のことだ。だから、本体はけっこう背が高い建物なのだ。これも大仏殿と似ている。

なぜ、背が高いのかといえば、四天王が守護するご本尊・十一面観音立象の高さが6メートルもあるからだ。これは平安時代の仏さまで、もとは京都にあったものを叡尊が四王堂の本尊として祀ったものと言われる。1145年のものとされ、定朝式のふっくらしたご尊顔の仏像だった。

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2024.12.17、奈良市

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2024年12月21日 (土)

西大寺東塔跡(平安期末)

そもそもなぜ東大寺は東大寺というのか。それは西大寺があるから、相対的に東大寺が東大寺と呼ばれるようになったわけだ。

東大寺のそれまでの名称はなにか。大仏は金鐘山寺境内で747年に鋳造が始まった。つまり東大寺の旧名は金鐘寺である。大仏は752年に開眼供養した。担当した役所は金光明寺造仏司という。つまり金鐘寺は747年には金光明寺と改名していたのだろう。

一方、西大寺は765年に、前年の藤原仲麻呂の乱の戦死者を弔うために金銅製の四天王像を本尊として建立された。このときに東大寺は金光明寺から東大寺に改名したというわけだ。

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747-765 金光明寺
765ー 東大寺

写真は西大寺東塔跡である。写真のとおり四角形平面の塔だが、これは平安末の再建時の礎石だ。当初、西大寺は東大寺同様の八角形平面の七重の塔にする予定だったが、なんらかの事情で四角形平面の五重塔として建てられたという。

しかし、発掘調査により基壇まわりから八角形の基礎が見つかっており伝聞と異なることが分かっている。このあたりややこしいので、もう少し調べてみる。

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2024.12.21、奈良市

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2024年12月20日 (金)

西大寺本堂(江戸時代中期)2

本堂の柱の足元に変わった形のソロバン石が据えられていた。表面をえぐりとって水はけをよくしているように見える。四隅に削り残された爪型が柱をつまんでいるように見えておもしろい。

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2024.12.17、奈良市

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2024年12月17日 (火)

西大寺本堂(江戸時代中期)

本堂は江戸時代の寛政年間(1789-1801)の作品だった。大きな寄棟屋根が雄大である。軒下を活き活きとした彫刻が飾る。これほど見事なお堂だったと改めて知った。

鎌倉時代の1235年、叡尊(えいそん)が西大寺に入ったとき、伽藍は荒廃を極め戒律は乱れていたという。それを立て直して西大寺流と呼ばれる土木建築の技術者集団を作った。東大寺再建(1195)を果たした重源(ちょうげん)が南宋から招聘した技術者集団が西大寺に引き継がれたのではないかと思っている。

西大寺中興の祖と仰がれている叡尊の座像を拝してきた。生前に造られたものなので、こんな風貌の方だったのだろう。彼は東大寺を最初に造った行基(ぎょうき)を尊敬していた。行基と同じように文殊を信仰していた。叡尊の造らせた文殊菩薩王が遺っている。文殊を載せる唐獅子がかわいい。そっくりな文殊像を京都黒谷の金戒光明寺でも見た。運慶や快慶のはじめた慶派の作品である。これが浪花型狛犬の遠い祖先である。

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2024.12.17、奈良市

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2024年12月16日 (月)

京都府庁正庁の復元シャンデリア

正庁の復元シャンデリア。これと似た本物をわたしは旧片岡邸(京都市、移築)で見た。真ちゅうパイプを曲げて作っていたと思う。これは真ちゅうにクロームメッキを施しているのではないか。ブラスバンドの楽器のようにキラキラしてきれいだ。

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2024.12.14、京都市上京区

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2024年12月15日 (日)

心斎橋大丸(1933)

きょうは、まいまい心斎橋ツアーだった。楽しかった。参加者さんのおかげでいくつか発見もあった。写真は大丸の石工作品。繊細でありながら力がある。こういう建築を作りたい。

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2024.12.15、大阪市中央区

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